境界線は心にあって、世界にはない」/ドネラ・メドウズ

地球は全体として形成されていて、宇宙の中にあって連続体として存在しており、そこに境界線はありません。宇宙の中に人間の心が生まれ、その心が境界線や区別を必要としたのです。「ここ」であって、「そこ」ではない。「これ」であって、「それ」ではない。「私のもの」であって、「あなたのもの」ではない。あれが海で、これは陸と、心が考えて、その間に境界線を引きます。見えるでしょう? 地図の上でははっきりと境界線が引かれています。

しかし、言語学者の言うように、地図は現実の地形と同じではありません。地図上にある線は、実際の波打ち際には見当たりません。人間が陸地の海辺に家々を建てて、海の波がそこに押し寄せて流してしまう。それは陸ではないのだよ、と海は言う。それは海でもないのです。地図ではなく現実の地形を見てご覧なさい。現実の地形は神聖なるものが創造しました。地図は違います。人間が作ったものなのです。現実には、陸地がここで終わり、海がここから始まるといった正確な地点は存在していません。

陸でも海でもない広大なスペースは、美しく、機能的で、肥沃です。人間はしかし、そこには価値を置かず、実際のところほとんど見ようともしません。なぜならそれらのスペースが心の中の線に合致していないからです。人間は海と陸の間のスペースを浚渫し、埋め立て、コンクリートを敷き、堤防を作り、排水することで、海か陸かのどちらかにはっきりさせることに懸命なのです。

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ここに境界線があるよ、と人間の心は言います。ポーランドとロシアの間に、フランスとドイツの間に、ヨルダンとイスラエルの間に。東側と西側の間に鉄のカーテンがあると。これがアメリカ合衆国の国境で、合衆国市民である「私たち」と、そうでない「彼ら」を分けている線なのだと。地図の上では、実にはっきりしています。

旧ソ連の宇宙飛行士「コスモノーツ」も、アメリカの宇宙飛行士「アストロノーツ」も(コスモノーツは「彼ら」の仲間で、アストロノーツは「私たち」の仲間)、宇宙へ行って、地球を宇宙から見たとき、そこに境界線などないことを知りました。境界線は心によってのみ作られたのです。そして、歴史を通じて心が変わるにつれて、境界線も変わるのです。

地球の時間軸では、人間の発明した境界線はめまぐるしく変わります。50年前の地図、100年前の地図、1000年前の地図は、今日の地図とはずいぶんと異なります。地球は40億年も存在しています。人間の境界線はほんのつかの間の存在に過ぎません。人々はその境界線をめぐって互いに殺し合いまでしているのだけれど。

国境という境界線が維持される、地球時間からみればつかの間の瞬間でさえも、移民は国境を合法にも非合法にも越え、お金とモノも合法、非合法に行き交います。渡り鳥は国境を越え、酸性雨も超えていきます。また、チェルノブイリからの放射性物質も国境を越えます。アイデアも、音や光の速度で国境を越えます。思想警察が厳重に取り締まっているところでさえも、境界線によってアイデアの行き来が止められることはありません。どうしてそんなことが起こるのでしょうか? 境界線は、それ自体がアイデアに過ぎないのです。

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私と、私でないものとの間には境があって、明確に分け隔てられています。少なくとも、そのように見えるのです。しかし、よく見てみましょう。どこに線があるのでしょうか?

もぎたての新鮮なリンゴが、朝露でまだ冷たくてシャキとして目の前にあるときは、それは私ではありません。しかしそれも、私がそれを食べてしまうまでのことです。私がそれを食べると、私はそのリンゴを育んだ土壌を食べることになります。私が水を飲むと、地球の水が私になるのです。1回1回の呼吸のたびに、私ではない空気が吸い込まれて私の一部となり、私の一部である空気がはき出されて私ではない空気となります。

もし空気や水や土壌が毒で汚染されれば、私も毒で汚染されます。境界線のない惑星という真実よりも、境界が存在するというフィクションを信じてはじめて、私は地球—それは私自身でもあるのに—を毒で汚染しようとするのです。

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あなたと私の間には、今は境界線が存在しています。その線ほど確実に存在しているものはないように感じます。ときどき、それは一本の線どころか、深い谷のようでもあります。ぼっかり口をあけた空間があって、私はあなたに届くことができません。

しかし、あなたは私の意識の中で、繰り返し現れ続けます。あなたが遠くにいるときでも、あなたの中の何かが、私のさまよう思考の中に現われ続けるのです。あなたがそばにいるときには、私はあなたの存在を感じ、あなたの気持ちやムードがどんな状態かを感じとります。そうしようと思っていないときでさえも感じます。いや、特に、そうしようとしないときに感じるのです。

もしあなたが地球の反対側にいても、私があなたの名前を知らなくても、あなたが私の知らない言語を話していても、それでも、私があなたの顔の様子を見て、喜びにあふれていれば、私もあなたの喜びを感じます。あなたの顔に苦しみが現れていたら、私もそれを感じます。そうしようと思っていないときでさえも感じます。いや、特に、そうしようとしないときに感じるのです。

あなたに注意を向けないようにするには、相当努力しなくてはいけません。それができたとき、無関心の壁で私の心を覆ってしまったときにはじめて、その壁の存在が、私自身の活き活きとしたエネルギーを制限し、あなたを壁としかとらえないのです。

そして、私が注意を、とても深い注意を向けたとき、あなたの人間性に、あなたの複雑さに、あなたの現実に、自分を十分に開いていたときにはじめて、さまざまな認知や、批判や、感情のその奥に、常に、私はあなたを尊重していると見出すのです。

あなたと私の間の境界線でさえも、それさえも、私たち自身がでっちあげた作り物に過ぎないのです。
(c) サステナビリティ研究所
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は、ドネラ・メドウズ・インスティテュートに連絡をとってください。
http://www.donellameadows.org/

(日本語訳:楠宏太郎、小田理一郎)

英語版はこちらからご覧になれます。
“Lines in Mind, Not in the World”
http://www.sustainer.org/dhm_archive/index.php?display_article=vn199linesed